西陣織の出荷額を調べていて、二度見した数字がありました。産地全体の年間出荷額は、1990年の2,795億円がピークです。それが2023年には169億円。1975年を100とした指数でいうと最盛期でも136.3、2023年はそこから大きく落ち込み、1975年以降でいちばん低い水準だそうです。

紫地に金の風景文様を織り込んだ帯

そもそも西陣織が何なのか、というところから確認しました。京都市の上京区と北区を中心に広がる、先染めの紋織物(糸で模様を織り出す織物)の産地です。先染めというのは糸を織る前に染めておくやり方で、反物にしてから染める京友禅などの「後染め」と対になる考え方。1976年に国の伝統的工芸品に指定されていますが、指定されている品種は爪掻本綴織、経錦、緯錦、緞子、朱珍、紹巴、風通、もじり織、本しぼ織、ビロード、絣織、紬の12種類もあります。ひとつの技法の名前ではなく、産地そのものがブランドになっていて、その下に12もの技法が束ねられている。ものづくりの現場も、織屋(機屋)が最後の製織と全体の企画を握りながら、それ以外の工程は自社で抱え込まず外に任せる、多工程の分業制です。

数字はまだ続きます。帯地の生産数量は、1975年の733万2,867本から2023年は25万4,378本、3.5%まで落ちました。織機の台数は、1975年に29,491台、ピークの1981年には34,617台あったものが2023年は2,371台。1975年比で見ると8.0%です。中でも手で織る「つづれ機」は、1981年の740台から2023年はわずか79台。2023年の出荷額の内訳を見ると、いちばん大きいのは室内装飾用織物の44.6%で、帯が36.3%、きものは6.2%。帯ときものを合わせた和装向けは42.5%しかなく、もう半分を切っています。最高格とされる丸帯にいたっては、年間227本しか作られていません。

高い理由は、この数字の背景を調べていくと少しずつ見えてきます。西陣は明治期、需要を失った危機を技術革新で乗り越えてきた産地でした。1872年、京都府は技術者3名をフランス・リヨンに派遣して新しい織り方を学ばせ、翌1873年にはジャカード織機とバッタン機がフランス・オーストリアから輸入されます。さらにその4年後の1877年には、地元の荒木小平がジャカード機を自作し、国産化に着手しました。輸入から国産化までわずか4年、1900年頃には西陣の紋織のほとんどがジャカード機に置き換わったといいます。技術を外から取り入れ、すぐに自分たちのものにしてきた産地なのだと分かりました。

その一方で、いま産地を支える設備は、需要の縮小とともに大きく減っています。分業の各工程は人の手と熟練に頼る部分が多く、需要が細れば、それを支える職人や設備の維持も難しくなっていくのだろうと想像しました。

Re:ADY Bから見ると、この数字にはもうひとつの意味があります。2023年に新しく織られた帯地は25万本あまり。でも、すでに家庭にしまわれたままの西陣の袋帯は、たぶんその何倍もの数、眠っています。アップサイクルの原料として見たとき、効いているのは新品生産の細さより、これまで積み上がってきた蓄積の厚みのほうかもしれません。織機が1975年比8.0%、つづれ機が79台という現実は、Re:ADY Bが掲げる「伝統工芸技術の衰退」という課題を、数字ではっきり裏づけていると感じました。

次回は、この西陣織という産地ブランドの中身——帯そのものの種類や格の違いを見ていきたいと思います。

Re:ADY B マーケティングディレクター SUMIRE

Iwaoka Sumire
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